今井町(奈良県)
奈良県橿原市、近鉄電車の大和八木駅近くの今井町は東西約600m、南北約300mの地域に約1500棟もの民家が集まっている。
そのうち約500棟ほどが江戸時代から近代にかけての伝統的な町家で、重要文化財に指定されているものも8軒も含まれる。
平成5年に重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けているが、重文指定の民家があれだけ残っている重伝建地区は他にあるのだろうか。
今井町は今井御堂と呼ばれる称念寺を中心と、周囲に環濠を張り巡らせた寺内町だったが、江戸時代には「海の堺、陸の今井」、「大和の金は今井に七分」と呼ばれるぐらいに大和国では最大級の商業都市に発展した。
その財力の名残りが現在も残っている古い街並みで、環濠や街割りも当時のままである。
重伝建地区に指定されたことで街並みが綺麗に整備されているが、現在も住人が普段通りの生活をしている。
(2020.05.07)
白川郷
合掌造りの民家が建ち並ぶ”白川郷”こと白川村荻町。
昭和51年に重要伝統的建造物群保存地区に指定され、20年後の平成7年に世界遺産の登録を受けた。
集落の外れにある城山展望台からの俯瞰は、観光ガイドでよく目にすることが多いだろう。
実際にこの場所に立って臨むと、確かに迫力のある家並みだとわかる。
(2018.06)
世界遺産ー大森銀山の町並み
東京から寝台特急「サンライズ出雲」に乗って、初めて山陰方面を二泊三日の旅をした。
最初に廻ったのは世界遺産にもなっている石見銀山(大森銀山)の町並み。
大田市駅からバスで35分にある大森銀山の町並みが重要伝統的建造物保存地区に指定されたのが昭和62年と古いが、それらを含む遺構が世界遺産に登録されたのは20年後の平成19年だ。
銀山が最初に発見されたのは、古くは鎌倉時代末期とされるが、本格的な開発が行われたのは江戸時代に入ってからで、天領(幕府直轄地)になったことで大いに発展した。
狭い谷筋に細々と続く街並みには武家や商人、一般の人々、寺社が密集して混ざり合うという、当時の封建社会においては珍しいもので、全盛期には20万人住んでいたとされる。
当時の江戸の人口が40万だった頃なので、銀山によって繁栄した都市だったといえる。
近代に入っても細々と採掘が続いてきたが、大正12年に休山となった。
3㎞以上も続く往時の古い街並みが現在も残っていて、バスを降りてからはレンタルサイクルを利用して散策した。
(2022.10)
御手洗(広島県)
江戸時代に西回り航路ができたことで北前船の往来が増え、御手洗は「潮待ち・風待ち」の港として賑わい、諸国の廻船を相手の中継貿易が盛んにおこなわれた。
人が多く立ち寄る場所には遊里ができるものだが、御手洗の場合は日没が近づくと「おちょろ舟」と呼ばれる小型の舟に「べっぴんさん」と呼ばれる遊女たちが乗り込み、繋留中の船に漕ぎ出す。
船上で交渉が行われ、船乗りたちは港近くのお茶屋に連れられ、一夜の旅愁に浸ったといわれる。
御手洗には江戸時代から近代にかけての古い街並みが残され、江戸時代のお茶屋跡とみられる建物も存在する。
海鼠壁の町家や洋風建築が混在する町並みは、かつての瀬戸内海の交易・文化の変遷を表すものとして貴重である。
(2012.07)
竹原(広島県)
本格的に旅をするようになったのは10年前。
ちょうどこの頃にアニメ「たまゆら」が放映されていて、その舞台が広島県竹原だった。
聖地巡礼という程ではないが、興味を持って東京からわざわざ足を運んで、その町並みを見に行った。
竹原は瀬戸内海に面した港町だったが、江戸時代に広島藩の支配地となり、干拓事業が始められた。
しかし、塩分が多く稲作に不適だったため、塩田としての開発が行われたが、これが大成功。
赤穂と並ぶ製塩地として繁栄し、西回り航路ができると塩の積み出しをはじめ物資の集積など、廻船業や酒造業などによって町が発展した。
その財力で旧市街地の中心部に現在も残る町並みができた。
「安芸の小京都」と称されているが、これほどまでの豪勢な街並みは京都には見られないだろう。
竹原の町並み保存地区はそれほど広くないが、その中央部の山手に「西方寺」という寺院があり、その石段から臨む家並みが素晴らしかった。
その風景は写真や絵によく取り上げられたものだが、訪問してから4年後にその石段の下で火災が起き、上の写真と同じ風景を見ることはできないそうだ。
(2012.07)